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子どもの声を国連に届ける会 子どもの声を集め、届け続けて6年くらい。
名前だけはデカイけどやってることは結構地味。 そんな我ら届ける会は今日もどこかで活動中。 |
そう言えば、ここ1年くらい?某週刊誌や月刊誌を中心に「子どもの権利バッシング」が相次いでおります。どうやら最近各地で子どもの権利に関する条例制定の動きが進んでいて、それに連動して推進派と反対派が対立してるらしいの。まぁ大人は右か左か、親か反か、とか、ひとまずどっちかに色分けするのが好きっぽいし。どっちかじゃなくてもいいと思うがね。人造人間キカ●ダー見習えよ。あれはあれで魅力的じゃないか。
で、実際の条例自体…なんかアヤシゲ。子どもを虐待やいじめから守るためとか子どものプライバシー保護とか、子どもの主体性を重んじるとか謳ってるが、結局「清く正しく社会に適応できるコドモ生産」が目標なのかと−−;
清く正しく生きれなかったら?そんな子も「主体性を尊重」してくれる?
そもそも、いじめや虐待から子どもを守るために子どもの主体性を尊重する。って?
「主体性」を持つって、その子が「自分が人間として存在していい」って肯定感をもてるかどうかってことだと思うし、その感情はたった一人きりでは持てるもんじゃない。
誰かが居て、寄り添って、誰かと関係し合う中で生まれてくるもんでしょ。
それを「はい、今日から君たちに主体性あげます。だから大人に意見言えるでしょ?いじめからは自分で身守れるよね?」なんてことになったら…意味あるの?
なんかイビツな子ども主体論が世の中に溢れて「子どもに権利だけ与えると…」って反対される。また「子供が権利ばかり主張するようになる」「しつけができなくなり子供がわがままになる」「親や教師が萎縮してしまう」ってお決まりのバッシング。
でも、このバッシング、当たっちゃうかもよ?
子どもを理解したふりした大人が、ひとまず子どもになんかあげときゃ大丈夫的発想でサクサク条例だけ子どもに与えたら…この国に沢山いる、誰にも受け止めてもらえない子ども、人間関係を作る場所を失ってしまった子ども、誰も信じられない子どもが「権利だけ」を信じて、「権利だけ」を盾にして、それだけを味方にして主張するかもしれないよ。「私には権利がある!だからこっちを向いてよ!私には権利がある!誰か受け止めてよ!」って。
‥そんなのあまりにも悲しすぎるじゃない。
ケンリなんて言葉がなくたって、ジョウヤクなんて決まりがなくたって、
私たちはきっと繋がり合える。子どもたちがまず信じられるものが、子どもたちをまず守れる盾が、「権利」でも「条例」でもなくて「隣にいる誰か」になることを願わなきゃ。
Mai